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代表プロフィール

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マルクスプランニング代表の松葉賢治です。

このページでは、私の詳しい自己紹介をしています。

相続の相談というのは『誰にするか』で結果は大きく変わってきます。そして、私は相談する人を選ぶには『その人がどんな人なのか?』を知っていることが大事ではないかと思っています。

このプロフィールページでは、私がどんな人物なのか?

そして、

『なぜ相続の生前対策を専門に活動しているのか?』

をお伝えしていきますので、少し長いですが相談の前に目を通して頂けると嬉しいです。

生まれ

昭和44年9月、群馬県前橋市に生まれました。

家族

公務員の妻、大学生の長男と高校生の長女。と6歳の柴犬と暮らしています。

趣味

幼いころからのクルマ趣味、見るのも乗るのも買うのも全部好きです。過去所有歴は30台以上で、「クルマ趣味がなければもう一軒家が建てられた」と妻から呆れられています。

もうひとつの趣味は音楽で、特に1970~90年代の邦楽と洋楽のロックが好きです。最近は聴くだけですが、高校から大学までバンドを組んでいました。

あとは、犬を連れて家族で行くキャンプを楽しんでいます。何もないところへ行って何もせず、焚火を眺めながらぼんやりするのが、至福の時間です。

小学校時代〜クルマ好きが高じて輸入車販売会社に就職

前橋市立永明小学校入学、割と人前に出るのが好きな方だったのか、生徒会役員や学級委員などへの抵抗感がなく、進んで引き受けるタイプでした。

インベーダーゲームに夢中になり、大人に混ざってボーリング場やゲームセンターでゲームに興じていたせいで、たびたび先生に呼び出され叱られてました。

またYMOをはじめとしたテクノミュージックやアメリカのポップスなどが大好きな、少し背伸びしたがりの小学生でした。

父が自動車ディーラーの営業マンだったせいで、幼いころから家にはミニカーやクルマのパンフレットがたくさんありました。それをおもちゃとして遊んでいた私は、幼いながらも大人になったらこんなクルマに乗りたい!という妄想をいつも膨らませていました。

前橋市立第五中学校入学、野球部に所属していましたが、部活動よりもクルマとロックに夢中でした。 とても校則が厳しい学校で、はやく高校生になって自由になりたい!という欲求がとても強かったです。

そして、高校は自由な校風として有名だった私立新島学園高等学校へ入学。

厳しかった中学校時代と対照的に、生徒個人を尊重する自由な雰囲気の学園生活にどっぷりハマり、バンド活動など遊んでばかりの3年間でした。

とても楽しい友人たち、また魅力的な先輩方や後輩たちとの出会いは、今でもかけがえのない大切な財産となっています。

大学は、ともに活動していたバンドメンバー全員が上京するため、「まったく受験勉強をしてこなかった自分でも現役合格が可能で、デザインが学べる都内の大学」という、いま振り返ると恥ずかしいほど安易な選択により、私立和光大学人文学部芸術学科へ入学。

安易に選んでしまったせいか、大学の雰囲気にまったく馴染めず入学してすぐに不登校となり、アルバイト中心の生活を送っていました。

幼い頃から好きだったクルマの仕事に就きたくて、神奈川県内のアメリカ車専門店でアルバイト、ほぼ毎日出社の2年間を過ごします。

しかし、同店店長から「せっかく入ったのだから、大学はきちんと卒業しなさい」と諭され、アルバイトを退職。3年生になってから急に毎日学校へ通い始め、なんとかギリギリ4年間で卒業できました。

卒業後の進路は、アルバイト先の店長からの勧めもあり、大手輸入車販売会社への就職を決め、地元群馬県で社会人生活をスタートすることになりました。

輸入車販売営業マンから、外資系生命保険会社に転職

勤め始めた会社での配属は、新車営業部アメリカ車の販売課でした。

営業マンとして、期待に胸を膨らませての社会人デビューです。

しかし、大好きなアメリカ車に携われる楽しさはあるものの、一般的な知名度がとても低い車種だった上、バブル崩壊後の冷えきった経済環境により、入社後3年間は販売にとても苦労をしました。

ようやく4年目くらいから販売のコツを掴むようになり、徐々に成績を上げることができるように。

会社の求める数字に対して結果を残せるようになり、人事考課面でも高く評価をされるようになりました。

評価が高まることは嬉しかったのですが、日々の業務は会社の掲げるスローガン「顧客第一主義」とはほど遠く、顧客の利益よりも会社や上司の都合ばかり考えた営業方針に、とても嫌気が差していました。

そんな毎日を過ごしていたところ、会社へ一本の電話がありました。

「ヘッドハンティングのお話です。」

その会社は、創業以来ずっと右肩上がりで成長している生命保険会社として有名だったので、一度話を聞かせてもらえばこれからの営業活動の参考になると思い、電話をくれたリクルーターとお会いしました。

業界を変革したいこと、顧客に対して正直なビジネスであること、会社の事ではなく顧客のことだけ考えること、時間管理が自由であること、フルコミッションの報酬体系であること、

など、魅力を感じるたくさんの話を聞きましたが、その中での、

「いまの仕事を将来生まれてくるお子様にもやらせたいですか?」

という質問に言葉が詰まり、

「ただひたすら顧客の事だけを考えればいい、嘘も偽りもない正直なこのビジネスに挑戦しませんか?」

という一言が胸に刺さり、心が固まりました。

そして、結婚をした直後の平成13年10月、外資系生命保険会社に転職をしました。

輝かしい成績を収めるものの、苦しい毎日が続く・・・

基本給ナシ完全成果主義というフルコミッションビジネスへの緊張感や危機感と、各業界で結果を出してきた人たちが集う会社において、自分がどれだけできるかの挑戦意欲に満ち溢れていました。

そして、多くの友人や元同僚たちの支えのおかげで、保険営業マンとして素晴らしい船出ができました。

入社初月の1ヶ月間で保険契約60件という、当時の所属支社ギネス記録を樹立したのです。

その後も社内コンテストに何度も入賞したり、成績がトップクラスの営業マンだけが所属できる社外組織の会員メンバーになるなど、傍から見ると輝かしい成績を収めていたと思います。

経済的にも潤い、順風満帆な毎日を過ごしているように、周りの誰もが思っていました。

しかし、実際には精神的に苦しみばかりの毎日でした。

人と会わないことには何も始まらないので、テレアポが欠かせません。

もう何年間も会っていない友人や、まったく面識のない人に対しても電話をかけまくります。

私が生命保険会社へ転職したことで、別の用事の電話にすら出てもらえない友人もいました。

ようやくつながった電話で面談のアポイントを申し出るものの、けんもほろろに断られることなど日常茶飯事。

なんとか面談のアポイントを頂いて、約束の時間に待ち合わせ場所へ伺うと誰も来ない。

何かあったのかと思い約束をしてくれた人へ電話をかけても出てもらえない、など。

夜の遅い時間に、連絡のつかない人を待ちぼうけしていると、

「…オレ、いったい何やってるんだろ?」

と虚しさに満ちた、とても悲しい気持ちになってました。

そんなこと何度あったか数え切れません。

また、かつて販売をしていた自動車とは違い、生命保険は顧客のニーズの変化によって保障内容の見直しで契約の入れ替えをしても、ペナルティーこそあれ、成績にはなりません。

常に新規の顧客を追い続けるか、追加販売をし続けなければならない。

この先も辞めるまで、まるで回し車を走るネズミのように、ずーっと走り続けていかなければならない、という働き方に心底疲れ果ててしまいました。

そのストレスが原因で身体にもたびたび異変が現れ始め、とうとう医師から心療内科への通院を勧められるようになってしまいました。

そんな心身ともに弱り切っているところへ、妻の両親から「うちの会社を継いでみないか?」と家業の後継者として声がかかり、商売を引き継ぐことに決めました。

生命保険会社に転職してから12年後のことです。

家業を継ぎ、経営者となる

平成25年12月、有限会社協和商会に入社。

自動車が陸運局で車検に合格できるよう最終的な車輌チェックをするサービスである会社、協和テスターを義父から引き継ぎました。

初めての会社経営でしたが、既存顧客が継続的に来店してもらえる仕組み作り、新たなる顧客を開拓するアイデアと実践、売り上げを維持するための施策、従業員を預かる責任、資金繰りの管理など、たくさんの学びを得ることができました。

創業以来、自動車検査場(陸運局)の目の前に拠点を構えることにより、地の利を活かした商売を継続してきましたが、以前からずっと噂をされていた自動車検査場の遠方への移転が急に決まり、現状のままでいたら、これまでの売上維持ができなくなることが分かりました。

このままでは、ジリ貧となって倒産してしまう。

そこで、新工場を建設するために適した土地を探し、従業員を増員した多店舗展開を視野に入念なシミュレーションを何度も繰り返しました。

しかし、自動車整備業界が抱えるネガティブな環境の変化や、歯止めのかからない売り上げ減少傾向を鑑みると、いくら考えても投資対効果が期待できません。

そして悩みに悩みぬいた末に、事業売却を決断。

同業他社へ、従業員と設備と既存顧客をすべて引き受けていただくことにしました。

義父が創業し、手塩にかけてきた事業を手放すことは断腸の思いでしたが、従業員と古くからの既存顧客の幸せを最優先に考えての判断です。

そして平成31年3月、約50年の会社の歴史に幕を下ろしました。

相続の生前対策の専門家になったきっかけ

私が相続の生前対策の専門家になった理由ですが、生命保険会社に在職中に経験したある出来事が、大きなきっかけになっています。

平成18年、まだ残暑が厳しい初秋のある朝、携帯電話が鳴り、電話の先にはY先輩。

「今朝、Aさんが亡くなった」

Aさんは私の前職の自動車販売会社の先輩で、整備士として長く勤めていた方です。

私が退職した後すぐに彼も辞め、自ら独立して整備工場の経営を始めました。

人柄がとてもよく、多くの同僚や後輩メカニック達からも慕われていました。

やさしさの中に男らしい一面があり、私も尊敬し慕っていたそのひとりです。

私が生命保険会社に転職後も、前職時代の顧客からクルマのメンテナンスを依頼されることが度々あったのですが、以前勤務していた会社よりも融通が効くAさんへ整備をお願いしていました。

とても仲良くお付き合いしていたので、当然のように生命保険の話を聞いてもらうアプローチをし、保障プランを提案しました。

しかし、「独立開業直後でまだ売り上げが不安定だから、商売がきちんと軌道に乗ったら加入するよ」と断られてしまいました。

契約を頂けなかったことは残念だったけど、前職時代の顧客のフォローで私自身とても助かっていたので、その後も下心なしで整備を紹介し続けていました。

その後、Aさんの経営は軌道に乗るが・・・

しばらくすると経営も軌道に乗った様子で、ひとりでは捌ききれないほど、順調にお客様が増えていたようです。

そして保障プランの提案から約2年後、「以前提案してもらった保険に加入したい」とAさんから申し出て頂き、奥様の保障も合わせ、ご夫婦から生命保険契約を頂きました。

以前こちらから提案したよりもずいぶんとシンプルな保障内容でしたが、わずかな保障しか加入していなかったAさんに、しっかりとした大きさの保障を提供できたので嬉しさと安心がありました。

そして、平成18年の春のある日、Aさんからの神妙な声で電話がかかってきました。

「妻の生命保険を使わせてほしい」と。

ガンの宣告、余命3ヶ月

話を伺うと、風邪と思われるような症状がしばらく続いたことが気になり、近所のかかりつけ医で受診をした奥様が、医師から「うちでは診られないから大きな病院で受診してください」と告げられたというのです。

精密検査をすると卵巣に悪性腫瘍があり、「すでに体中へガンが転移している、もはや施しようがない、もって余命3ヶ月」との宣告を受けた、と。

それを聞かされた私はショックで、すぐに返事ができませんでした。

しかし、うろたえている場合ではないので、家族にとっての最善策を模索。

後日、言葉を丁寧に選びながら「決して奥様の命を諦めるわけではない、これからも元気に生きていくために、そして夢をかなえるために保険金を使いましょう」と提案。

生きているうちに保険金を請求できるリビングニーズ制度を使い、契約されている保険金を全額請求しました。

支払われたその保険金は、階段を一段昇るのに数十秒を要するほど病状が悪化した奥様のために、自宅一階の客間を奥様専用の寝室へリフォームする費用と、健康保険対象外の漢方薬やワクチンなどの購入費用として使ってもらいました。

お届けしたのは単なるお金ではなく、治療への様々な選択肢と、家族の心の平和や安心が届けられたと信じています。

奇跡的に病状が回復

様々な施しを受けました。そして、何がどのように効いたのかは分かりませんが、不思議なことに次第に病状が安定していったのです。

そして、ついには根治手術を受けられるまで体力が回復し、なんと癌細胞のすべてを取り去ることができたのです。

大学病院の主治医や研修医も、奇跡だと言っていました。

きっと経済的な不安がなくなって、心穏やかに治療に向き合うことができたのが回復の理由で、生命保険金のおかげです、とご夫婦から何度もお礼を言われました。

生命保険会社の仕事に就いてよかった、と改めて思えた瞬間でした。

そんな背景があったので、あの日、Y先輩からの「今朝、Aさんが亡くなった」という報せの電話は、てっきり奥様についての事だと思ってY先輩と会話をしていたのです。

本当に亡くなったのは・・・

「そうじゃない、Aさん本人だ」

と聞かされ、一瞬、息が止まりました。

自殺でした。

すぐにその現場である、彼が経営する整備工場へクルマを走らせました。

「なんで?なんでだよ?」とずっとつぶやきながら。

約1時間かけて到着すると、そこにAさんはいませんでした。

すでに自宅へ運ばれた、と。

工場の床にはそれに使われたロープが落ちていて、その横には水の張られたバケツに放り入れられた携帯電話も。

踏み台として使われた高さ1mほどの工具箱の上には、数え切れないほどたくさんの足跡がついていました。

何度ここで躊躇したのだろう。

どんな思いで最期を決断したのだろう。

生々しい現場の雰囲気に言葉が出ませんでした。

しかし、まだ本人に会っていなかったから、目の前の光景が信じられなくもありました。

しかし、自宅で本人と対面した途端、もう現実だと受け入れるしかないと悟りました。

堰を切ったように涙が溢れ出てきました。

大人になって初めて、えーんえーんと声を上げて泣きました。

帰る私を気丈に見送る、中学生の息子たち。

ちっとも笑える状況ではないのに、作り笑いで見送ってくれる二人の傍らには、癌を患っていた奥様も。

目を真っ赤に腫らしながら、静かに私を見送ってくれました。

徐々に明らかになる自殺の理由

自殺の理由は、時間の経過とともに明らかになりました。

ある近しい人の借金へ、Aさんが連帯保証人になっていたのです。

当初は借主が毎月返済していたのですが、ある時から返済が滞るようになり、連帯保証人であるAさんの下へ借金取りが来るように。

他人の借金を返済するために自らも銀行で借り入れをし、そのまた返済のためにサラ金で借り入れ、それを返済するために闇金で借り入れ…。

その借入金の総額は、億を超える額まで膨らんでいました。

商売では順調に顧客を増やしていたのを知っていたので、まったく想像ができず、驚きと悲しみと悔しさでいっぱいでした。

しかし、悲しみに暮れている場合ではありません。

なぜなら、工場にはお客様からの預かり車輛などがたくさんあったからです。

奥様は商売に一切携わっていなかったので、どこの誰に連絡をすればいいのか分かりません。

そこで私は、Aさんの友人たちにも協力をお願いし、奥様に代わって工場の整理を始めました。

そんな中、事務所の片づけをしているときに、Aさんがいつも肌身離さず使っていたカバンを発見。

開けてみると、取引先への請求書などと混ざって、1枚のメモ用紙がありました。

メモに書かれていたのは・・・

数人の名前と携帯電話の番号だけが書かれた、1枚の小さな手書きのメモ。

その一番先頭に、私の名前が。

その次に、最も仲良しの幼なじみの友達。

その次に、最も仲良くしていたY先輩。

その次に、師匠と敬っていた整備士の大先輩。

ショックでした。

まるで遺書の代わりのように「自分の死後、ここへ電話してくれ」というメッセージのメモだったのです。

…そのリストの先頭が、私。

幼なじみや親友や師匠ではなく、誰よりも真っ先に私の名前。

それは私へ電話すれば、保険金が受け取れるからなのでしょう。

激しく心臓をギューッと締め付けられた感覚になり、そして自分を強く責めました。

生命保険に加入していたから、命を捨てる決断をしたのではないか?

私は命を投げ出す後押しをしたのではないか?

契約後2年間は免責期間があるから、この日までずっと我慢して、そしてこのタイミングを選んだんじゃないのか?

そもそも私が生命保険を提供していなければ、彼は死を選ばなかったのではないのか?

そうすれば、今でも家族仲良く暮らしていたのではないのか?

私や生命保険が家族の絆を壊してしまったのではないのか?

この出来事以来、「生命保険を販売することは、果たして本当に正しいことなのだろうか?」と自分の職業に自信を持てなくなってしまいました。

と同時に、生命保険だけでリスク対策をすることへの違和感を強く感じるようになりました。

ショックな事実が判明し、相続放棄を選択

さらにショックなことは続きます。

保障プラン設計の根拠にすべくヒアリングをした時には、買ったばかりの家の住宅ローンには団体信用生命保険をかけている、と言っていました。

しかし実際には、資金繰りに困っていたせいで掛け金が未納になっており、しばらく前から保険は失効していました。

そのせいで、住宅ローンはすべて残ってしまったのです。

結果、負債が多すぎたため、家族は相続放棄を選択。

住み慣れたマイホームも手放すことに。

唯一、相続人固有の財産として残った、生命保険金。

こんな結果が、先輩の本意だったのでしょうか?

あの時もっときちんと深く聞かせてもらえれば、その後のお付き合いの中でも、どんな悩みも相談してもらえる信頼感を提供できていれば、こんな結果にならなかったのに…と思うと、本当に悔しくて悔しくて仕方がありません。

弁護士の高圧的な態度に萎縮

その後、相続の手続きを行うにあたって債権者への対応を行う為、債務整理の窓口を法律の専門家に頼むことにしました。

その時は私も相続の専門的な知識がなかった為、立派な経歴が記載されたホームページを持つ弁護士へ飛び込みで受任を依頼することにしたのです。

しかし、その弁護士はまるで客商売とは思えないほど愛想がなく、会話の端々に難しい言葉を使って、高圧的な態度が垣間見えてしまう人でした。

弁護士という職業人と初めてかかわる奥様。

委縮してしまい、聞きたいことが何も聞けません。

つい同じようなことを繰り返し質問すると、「だーかーらー!」と語気を強める弁護士。

さらに委縮する奥様。

このままではいけないと思い、途中から私が奥様と弁護士の間に入り、通訳として仲介をすることに。

私が同席をするようになると、「松葉さんがいるだけでホッとします」と奥様。

間を取り持つ役割の必要性を、強く感じました。

Aさんの訃報から半年後

このようなこともあり、過度のストレスが原因か、癌の治療から奇跡的に回復していた奥様の容体が急速に悪化し、後を追うように半年後の平成19年の春にお亡くなりになりました。

わずか半年の間に両親を失ってしまった息子たちのこれからのために、どんなことができるのか未成年後見人と何度も何度も話し合いました。

しかし多感な時期に特異な経験をした少年たちに対し私ができたことなど、ほんのわずかなことだけでした。

二人はいま、強くたくましく立派に成長し、それぞれの夢に向かって羽ばたいています。

そんな姿を遠巻きに眺めつつ、陰ながら応援をしています。

私が相続発生前の生前対策を行う理由

この出来事が、私の仕事の方向性を決定づけました。

『困っているお客様に本当に必要なのは、

ひとつに偏ったリスク対策なのではなく、全体のリスクを捉えバランス良く対策をすること。

そして、どんなことでも安心して話すことができ、かつ専門家をコーディネートすることができる相談相手。

私の残りの人生は、

心配事や解決すべき問題を抱えたまま最期を迎えてしまう人を少しでも減らせるように、

大切な家族の絆が壊れないように、

商品販売が目的ではなく、本当に顧客の利益だけを考えたアドバイスと、その実行支援をする。』

こう、心に固く決心をしました。

お客様が抱える問題を解決するには、点ではなく面で考える必要があります。

「木を見て森を見ず」になってはならず、全体を俯瞰する視点が必要です。

様々な相続の実務家から意見を集め、総合的な解決策を提供したい。

生活を便利にするために発明された道具である「お金」の使い方を誤り、命を捨てるとか、不要な揉め事を起こすことを防ぎたい。

せめて私とかかわりを持ったわずかな人だけでも、経済的・精神的な不幸に苛まれないようサポートしてあげたい。

信頼してもらい、どんなことでも話していただける存在になりたい。

そう考え、相続の生前対策の専門家としてこの地、群馬県前橋市で活動を行っています。

もしあなたが、相続のことで少しでも不安があるのなら、今が対策を始めるベストなタイミングです。

まずは、相続までの道筋を明確にするところから始めていきましょう。

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